□Adagietto──For Ms. Hinaki


 やれやれ。困った……が起きない。
 もういい加減に起きてもらわないと、コンサートに間に合わなくなってしまう。
 その後ディナーをとる予定だから、車で行くわけにはいかない。のバースデイ・ヴィンテージのワインを預けてあるのだから、車でレストランに向かうわけにはいかない。
 タクシーで向かうにしても、一方通行だらけのこの街では、どう考えても予定時間をオーバーしている。

 ──やれやれ、予定を言えないというのも良し悪しだな。

 予定を伝えておけば、は時間の逆算をしてくれるだろう。けれど予定を伝えていなければ、今日ゆっくり寝ていられるはずだと思ってしまうだろう。
 事実、は今日、俺とのんびり過ごせると思っている。それが俺からの誕生日プレゼントだと思っているのかもしれない。
 だから、起きてくれない。

 偶然休みの日に当るのだから、一日全てを君に捧げ、精一杯祝ってやりたかった。
 普段は忙しくてなかなか一緒にいてやれない。
 君の誕生日くらい、俺は君のそばにいてやりたい。俺に出来る限りのことをしてやりたい。
 、だから、起きてくれないだろうか。
 俺のために。

 次の君の誕生日を、俺に預けてくれないか。
 そう言ったのは俺だ。
 君が可愛くて、つい、今朝も君が疲れて眠るようなことをしたのも、俺だ。
 だからが起きないのも、そして予定が大幅に遅れかけているのも、自業自得ではある。
 君を驚かせようと、君に内緒でコンサートのチケットを手配し、評判のレストランをリザーブし、こっそり君のヴィンテージのワインを預けておいた。
 予定を伝えていないことのメリットは、君の驚いた顔を見られること。
 ──デメリットは、これだ。
 起きてくれ。頼む。

、起きなさい。
 何度か彼女の肩をゆすると、ようやく目をうっすらと開けてくれた。
「出かけるぞ」
「…………」
 目は開いているだけらしい。いつものことだ。もう慣れた。
「出かけるぞ」
「…………え?」
「出かけるぞ。支度をしなさい。大急ぎでだ」
 はまた意識がはっきりしないらしい。うすぼんやりとした瞳で、不思議そうに俺を見ている。
「……どこに?」
「それは言えない。とにかく急ぎなさい。どこにいっても恥ずかしくない服を着なさい」
「……それが、プレゼント?」
 は眠たげな目で、しかし小さく微笑んだ。
「そうだ。だから急ぎなさい」
「はーい」
 現金なものだ、は遠足に行く子供のように飛び起きた。

 時計を見た。
 まだ、タクシーを運良く拾えれば間に合う。

「ねえ、どれがいいと思う?」
 は俺の前でいくつかの服を身に当てて訊いてくる。
「どれでもよろしい。どれでも君によく似合うのだから。急ぎなさい」
「はーい」
 よいお返事だが、はまだそれからも代わる代わる服を当てて迷っていた。
 もう間に合わない。
 自業自得なのだが、ファクターを変更しなくてはなるまい。
 どれを変更すべきか。

 コンサートに途中から入るのは、やめよう。が聴きたがっていたマーラーの5番なのだ。あの美しい曲を途中からではかわいそうだ。
 では車で飛ばしてコンサートホールに向かうしかない。
 そうなるとレストランでワインを一緒に傾けられないが、致し方ない。俺はミネラルウォーターでいい。にだけはあのワインを飲ませてやりたいのだから、次善の策ではある。
 よし。決まった。
 車で行こう。

「用意はできたか?」
「うん」
「では行くぞ」
 俺はもたもたしているの手をつかんで、大またで歩いて車に向かった。
「どこに行くの?」
「いいから。車に乗りなさい」
 車のドアを開け、を中に押し込んだ。
 腕時計は、俺の運転技術に挑戦していた。
 フム。やってやる。
 俺は運転席に座り、キーを差し込んだ。
「シートベルトはしたか?飛ばすぞ」
「はーい」
 は何が起きるのか楽しみでならないらしい。
 可愛い表情だ。
 見つめていたいところだが、タイムアタックの開始だ。
「行くぞ」
 俺は左右を確認してから、勢いよくアクセルを踏み込んだ。
 シートに重いGがかかった。

 どんな道でも俺のテクニックの前にはただの道だ。
 一方通行だらけであろうとなんだろうと、そんなものはテクニックさえあれば乗り切れる。
 俺はすばやく地図を頭に描いた。

 最短ルートはこれか。よし。

 コンサートホールの駐車場まで、俺のテクニックなら可能な道が選び出された。
 次のコーナーを曲がらなくてはならない。
 狭い道が見えてきた。あれだ。俺に挑戦するかのような狭さだ。

 おもしろい。やってやろうではないか。
 は俺の横で、楽しげに鼻歌を歌っている。
 彼女の驚く顔もなかなか可愛いのだ。
 これから俺がやることを見て、彼女はその可愛い顔を俺に見せてくれるだろう。
、つかまっていなさい」
「え?うん」
 俺は思わず笑みが頬に浮かんでしまった。
 彼女は怪訝な顔をしている。
「どうしたの?」
「いいから。つかまっていなさい」
 言い終えるや否や、俺はコーナーでスピードを落とさずにハンドルを切り、スイッチターンをした。
 タイヤが悲鳴をあげた。はシートに押し付けられ、声もでない。
「だからつかまっていなさいと言ったのだ」
 俺は言いながらのヘッドレストに手をかけ、後ろを見ながら片手でハンドルを操り、車のテールを狭い道に突っ込んだ。
 そのままスピードをあげ、逆走を始める。通行人が口をあんぐり開けていた。
「向こうから車が来ないことを祈っててくれ」
 俺の言葉に反応はなかった。
 は呆然と俺を見ている。
 ……まあ、そうだろう。
「これが一番、近いんだ」
 いつの間にか俺は笑っていた。
 の驚く顔と車の軽快なエンジン音が愉快だった。

 大逆走を終え、なんとかコンサートに間に合う時間に到着することができた。
「タイムアタック成功だ。さ、行くぞ」
 車のドアを開け、の手をつかんでエントランスへ向かった。
 俺に引きずられるようにして歩きながら、はきょろきょろとあたりを見回していた。
「何を観るの?……あ」
 壁にかかったポスターで、今日の演目をは知ったようだった。
 彼女は次の瞬間、プレゼントの小箱を開けた子供のように、顔中に笑みを浮かべてくれた。

 ──これだ。これが見たかった。

「マーラーの5番だあ」
「そうだ。聴きたいと言っていただろう?」
「うん。嬉しい〜〜」
「俺もだ」
「零一さんも聴きたかったんだ?」
 いや、そうではなくて。
 まあいい。
「遅れるぞ。席に早く行こう」
 俺はの手を強く握った。

 俺たちが席につくと、舞台の上にはもう楽団員たちがほぼそろい、あとは指揮者を待つだけという状態だった。
「楽しみだな。零一さんと聴けるなんて嬉しいな〜」
 はしゃぐ彼女は可愛いが、もう音楽が始まる。
 指揮者が出てきた。盛大な拍手がおくられる。
 俺もの手を離し、指揮者と楽団員たちに拍手をした。
 指揮者が観客に礼をし、楽団員に向き直った。
 すっとホールは静まり、緊張感で満たされる。
「さあ、はじまるぞ。静かにしなさい」
 俺は小声でに一応、注意した。
「はーい」
 もいい子に小さな声で返事をした。
 そしていたずらっぽく笑い、俺の手を握ってきた。

 まったく。

 俺も彼女の手を包むように握った。 

 トランペットが響き渡り、マーラーの交響曲第5番が始まった。
 雄大なドラマの始まりを告げるように、金管楽器と打楽器が耳をつんざく。
 は嬉しそうに舞台を見つめている。
 フム、今夜の演奏はなかなかのものだ。指揮者と楽団員たちがひとつになって、マーラーの重厚な旋律を解き放っている。素晴らしい。
 つないだ手に熱がこもってしまう。
 は俺の手の熱を感じているだろうか。
 そっと、俺はの横顔を見てみた。

 ……この大音響の中で、彼女は眠っていた。
 俺は軽く感動すら覚えた。よく、眠れるものだ。しかも第一楽章から。
 俺はぐっと手に力をこめ、を起こした。
 ははっとしたように顔を上げた。

 それから彼女はがんばって目を開け続け、なんとか第一楽章、第二楽章、第三楽章を切り抜けた。
 俺はが少しかわいそうになってきていた。
 あれほど疲れさせたのは俺だ。
 このまま寝かせてやりたい。

 ──だがここから第四楽章なのだ。
 俺が君に一番聴いて欲しい旋律だ。
 俺の気持ちそのままの旋律が、これから君へと流れていくのだ。
 聴いていて欲しい。
 俺はの手をもう一度強く握り、彼女の目を開け続けさせた。

 そして第四楽章が始まった。
 Adagietto。ハープと弦楽器だけで演奏されるアダージオだ。
 月の光の中、翼を与えられて二人で漂うような旋律。
 これ以上甘く、これ以上満たされる旋律があるだろうか。

 、これが俺の気持ちだ。
 わかるか……?
 俺はまたそっと彼女の横顔に目をやった。
 …………は眠っていた。

 やれやれ。まったく、君は。

 恋人の腕でまどろむような旋律の中、は俺に手を預け、何もかもを放り出して眠っていた。
 ある意味、もっともこのAdagiettoに浸っているのはなのかもしれない。
 そう思ったら、ふわりと温かいものに包まれたような気がした。

 わかった。
 眠りなさい。
 俺はここにいる。手を離さないから。

 俺は眠りこけるに心の中でつぶやいた。
 そしてひとり、の手を包んだまま、第五楽章を堪能した。

 

(了)

(2003.1.20)

(作者のクローバー女王様によるあとがき)

 この「Adagietto」は、私にお婿を下さったヒナキさんへ、私が差し上げたお婿です(笑)。
 2003年の年明け早々、ヒナキさんは私に、それはそれは甘いSSを書いて下さいました。こんなに甘い作品を頂いていいのだろうかと思ったほどです。
 といいつつ即日しっかりお婿としてを強奪させていただきましたが。ははは。このヒナキさんからのお婿は、宝物殿に奉納されている「雪の日の訪問者」です。
 あんな甘いお婿を頂いたのにお返しをしないわけにはいきません。というわけで書いたのがこの「Adagietto」です。

 マーラーの交響曲第5番の第四楽章は"Adagietto"と呼ばれ、そのなめらかな甘い旋律はTheをつけて語られるほどになっています。Adagiettoとは本来音楽用語で、ゆっくりとした穏やかに演奏する曲という意味でしかありません。が、マーラーのこのAdagiettoは、Adagiettoといえばこれ、というように固有名詞として使わています。それほど、その美しさで知られる名曲です。
 恋人の腕の中で安らかに眠るような旋律なので、ヒナキさんのご注文である「まじめで糖度高め」のお婿に選びました。

(婿を娶らせていただいたヒナキの蛇足)

 どうですか? うらやましいでしょぉ〜〜〜〜〜〜オ〜ッホッホッホ(お蝶夫人?)
 私のリクエストは、「先生に連れて行ってもらったクラシックコンサートで寝てしまうヒナキ」というものでした(ええ、実際寝たことが…)。ほかにも、「ドライブが好きなので、クルマで連れて行ってもらえること」「運転で超絶技巧を見せること」などいろいろ注文をつけてしまいました。注文した時想像した以上の甘い甘いSSをいただいて、私は幸せ者です♪
 こういう状況は女王様のご専門ですので、お願いしてほんと正解でした。いやーうれしいものですね。
 細部にいたるまで、さりげなく「男っぽさ」がちりばめられていて、いちいち「キャー」状態です。大またに歩いて引っ張っていくところとか、逆走のところとか…こういうのにホント弱いです。

 しかし…この後先生せっかくのヴィンテージなのに飲めないんですね…ごめんね先生。私がぐーすか寝てたせいだね。ごめんねごめんね。
 でも私も1杯くらいにしとくから。今度はいっしょに飲もうね。

 さっそくうちでも飾ろうと思い、背景画を探しました。これまであえて使ってこなかった真っ赤な薔薇も考えたのですが、気恥ずかしくてやめ。いっそシルバーリングかぁ!? とも思ったのですが、先生スキーから非難を浴びそうなのでやめ(笑) 結局こんな感じにしてみました。

 私の名前を固定にするのはもったいなかったので、一応ドリー夢対応にしています。NOVELで名前の設定をなさっている方は、その名前が表示されます。でもこの際cookieを削除してオリジナルで読んでみて悔しがって(?)ください(当然デフォルトはヒナキ。はっはっは〜)
 はぁ〜これだけで寿命が5年延びました。女王様ありがとう〜〜!!!(*^_^*)