昔、俺の家にはピアノが2台あった。父と母、それぞれのピアノだ。
どちらもサロングランドといわれる中型のピアノであったが、それぞれの好みを反映して音色もタッチもまるで別物であった。
ガラスの糸を編み上げるようにデリケートに調律され、清冽な音色の母のピアノ。
タッチもペダルも重めだが恐ろしく力強い音を持った父のピアノ。
それはまるで、同じピアニストという職業にありながら、まるで水と油であった俺の両親の心のありようを象徴しているようでもあった。



<<沈黙>> 


「モノはヤマハだ。…セコハンだけど掘り出しモンだぜ?」
ピックアップのステアリングを操りながら益田が得意そうに言う。
「掘り出し物かどうかは現物を見てから判断しても遅くないと思うが?」
俺は不機嫌を隠す事無しにそう釘をさしてやった。
たまの休日を、日頃滞りがちな家事一切と教材研究に充てようと考えていた俺を拉致同然に連れ出したのだ、この男は。
「その判断をしてもらうために、零一クンにご足労願った訳よ。何てったって、俺にゃーピアノの良し悪しなんて判らねーからな。」
「俺だって専門家という訳ではない。」
「零一クンが気に入れば、俺様的にはオッケーなの。俺の店でピアノ弾いてくれるような物好きは他に居ないからな。」
益田は全く悪びれる風でもなく言う。あの程度の嫌味では、この男に髪の毛1本分のダメージも与えられないのだ。

一週間ほど前、益田は突然自分の店に置いてあるピアノを買い換えたいなどと言い出した。
確かにあまり豊かそうでもなかった開店資金で益田が調達してきた中古のアップライト・ピアノは、
生演奏と、今となっては値千金のアナログ音源の名盤をかけることを売りにしているにしているジャズバーにしては物足りない感もあった。
しかし、回収の見込みもないのに設備投資をするなど愚の骨頂であるし、
もともと広くもない店内にグランドピアノなど置いたら、客席数が減り、もとから高そうでもない利益率がさらに下がるであろう。
そもそも開店時の借金だってまだ完済していないだろうに、どうすればそのような無謀な事を考えつくのだ。
俺はそう、忠告した。
しかし益田は、「そんなケツの穴の小せぇコトばっかり言ってるから、何時まで経っても"レーイチ"なんだよ!」等と訳の判らない論理で
俺の意見を一蹴した。
益田は小中高一貫して成績は中の下といったところであったが、それは益田自身の思考能力の問題というよりも
純粋に学習意欲の問題であったと俺は認識していたが、それは大いなる誤りだったのかもしれない。
…まぁ、良い。経営難におちいるのは奴の店だ。手痛い経験をすれば、益田も少しは学習するだろう。
ある意味必要な薬、なのかも知れない。
俺は腕を組んだまま、助手席のシートに体を預けた。

車の揺れに身を任せていると、身体の奧に沈殿していた疲労が一気に顕在化してくる。
俺はこれまで教師として、人間として、休む事なしに走りつづけてきた。
それは辿り着きたい確固たる目標があるからではなく、立ち止まって後ろを振り返ることが…怖かったからかもしれない。
そう…俺は自分の過去を振り返ることが怖い。
父は自らの思いを俺に語らないまま、母と離婚した。
父が俺に何も語らないまま去ったのは、彼にとって俺は取るに足らない存在であり、語るべき思いがないからだ、ずっとそう思っていた。
しかし…俺が父の真実の気持ちを悟った時には、父は既に泉下の人であった。
失われた親子の時間を取り戻す事は……永遠に叶わない。
これは…自分を守ることに精一杯で父と関わろうとしなかった俺の愚かしさに対する罰、なのだ。
俺が俺として生きている限り、決して終わる事のない…。
罰が怖いのではない…怖いのは、それをもたらした俺自身の愚かしさ、だ。
だから俺は…立ち止まる事が出来ないのだ。

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「…零一。着いたぜ。」
自分の思考世界に深く沈みこんでいた意識は、益田のこの声で一気に現実世界に引き戻される。
中古のピアノを見に行くという話だったので、てっきり楽器屋にでも行くものと俺は思っていたが、
2時間ほどのドライブの末、益田が車を止めたのはおよそ益田とかかわりがあるとは思えないかなり大きな家の前だった。

「お話は伺っております。どうぞお入りください。」
家政婦らしい中年の女性の案内で、益田と俺はその家の応接間らしい南向きの部屋に通された。
重厚なつくりの応接セット、システム全体では数百万するであろう上等のオーディオ機器と、
キャビネットに整然と並ぶ珠玉のジャズの名盤たち、そして…この立派なしつらえの応接間には少々不釣合いな古びたピアノが一台…。
何故だろう…俺はそのピアノに言葉では説明しがたい何かを感じた。
手の伸ばしてそっと触れてみる。…くすんだ輝きが、その上に流れた時間を物語っていた。
「よろしかったら何か1曲、弾いてみませんか?」
その声に振り返ると、部屋の入り口にこの家の主らしい初老の紳士が佇んでいた。
「……よろしいのですか?」
実のところ…初めて見た瞬間から、俺はこのピアノを弾いてみたいと思っていた。
いや…"思っていた"というのは正確ではない。もっと衝動的な、感覚だ。
「どうぞ。…このピアノも喜ぶでしょう。」
おだやかに微笑みながら紳士が言う。
視界の端のほうで益田が意味ありげにニヤニヤ笑いを浮かべているのが見えたが、無視した。
とにかく、このピアノが弾いてみたかった。
弾くといっても何を弾くべきだろうか…考えながらピアノの蓋を開ける。
だが、考えるよりも早く、指は俺の鍵盤の上を走り出した。
溢れ出る、ダイナミックで、艶やかな、…音!
オーバーホールされたのだろう、タッチやペダルの感触が少し違っていたが、変わらない豊かな響き…。
鍵盤の左側のスペースに残ったグラスの跡。…そういえば父はよくここにグラスを置いて酒をやりながら演奏していたな。
何もかもが…切ないくらいに懐かしい……。
父のピアノに間違いなかった。
そのことに気づいてからから、何故指が勝手にこの曲を弾き出したか得心する。
<<茶色の小瓶>>―――――父が機嫌の良いときに好んで弾いた曲だ。
物質的こだわりが極端に少なかった父は、思い出のほかはほとんど何も残さずに、逝った。
だからそれは、まるで父の古い知人と思いがけなく再会したときのような喜びを俺にもたらした。
「氷室…零一…さん。かの"氷室恭一"の息子さん…ですね?」
俺の演奏が終わるのを待って、老紳士が遠慮がちに口を開く。
父・氷室恭一の名はジャズピアニストとして、それなりに知られていた…らしい。
しかし、他人がこのように嬉しそうに目を細めて、その名を口にするのを目の当たりにしたのは初めてだった。
誇らしいような、こそばゆいような……だが、決して悪い気分ではなかった。
だから俺は胸を張ってこう答えた。
「そうです。…あなたは?」
「私はお父さんのファンでしてね…彼の死後…彼のピアノが競売にかけられているのを知って思わず購入してしまったのですが…。
恥ずかしながら私はピアノを弾かないので…このピアノには可愛そうなことになってしまっています。」
ピアノのピアノとしての最高のコンディションを維持するためには、
適切な環境、適切なメンテナンス、そして何よりも日常的に演奏してやる事が必要である。
ピアノ演奏をしないオーナーの元に在ると言うことは、確かにピアノにとって不幸な事かもしれない。
「それで…氷室さん、1つ頼みが在るのです。」
「…何でしょうか?」
「思い出した時で構わないのです、たまにこのピアノを弾いてくださいませんか?」
「…大変嬉しいお言葉です。しかし、私には別に仕事もあります。簡単にはお約束できかねますが…。」
はばたき市からここまで車で片道2時間、往復で4時間。演奏時間も入れれば5時間にもなるだろう。
それ程の時間をたびたび捻出するのは容易ではない。
「なに、ご心配には及びません。もし貴方が引き受けてくださるなら、このピアノは貴方に差し上げるつもりですから…。」
「!!…しかし。」
「彼の血を分けた息子さんが、彼の遺品のピアノを弾く。それはは私にとっても嬉しいことなのですよ。」
「せっかくですが、私は今現在グランドピアノを一台所有しておりますし、マンション住まいなので…もう一台となると…。」
「ピアノの置き場所?そんな心配しなくても良いぜ?俺の店に置けば良いさ。
オヤジさんには味も素っ気もないお前の部屋より、煙草の煙とジャズが充満した俺の店のほうが居心地良いんじゃないか?
俺の店だったら、何時だって弾きに来れるしな。」
"待ってました!"と言わんばかりに益田が言った。
…しまった。この男の狙いは最初からこれだったのか!
思いがけず父のピアノと再会できた天佑にその存在をまるで忘れていた。
"こんな男の戯言に耳を貸さないでください"と俺が言うより早く、老紳士は声をあげて笑い出した。
どのような関係かは俺の関知するところでないが、二人は旧知の仲のようだ。
「なるほど、益田さんのお店に…それは良いアイデアですね。…氷室さん、如何でしょう?」
それは質問というよりも、確認だった。
老紳士の肩越しにガッツポーズを決める益田の姿が見えた。
奴の敷いたレールの上をまんまと走らされるのは不愉快だが、俺には黙って頷く以外の選択肢など無かった。

…かくしてそれから数日後、益田の店からはボックスシートが2つ撤去され、
その空きスペースに1台の古びたグランドピアノが運び込まれることになった。
益田は1円も出費する事なしに(ピアノの運搬費は俺が負担した)、中古ながらコンディションは抜群のピアノを手に入れたのだ。
しかも、"親父さんのピアノを置かせてやっている"という恩を俺に着せて、だ。
確かに益田にとってこのピアノは"掘り出しモン"に違いなかった。

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「ぃよう零一、今夜は早いじゃないか。どうしたんだ?」
父のピアノが届いた日、開店直後の益田の店を訪れた俺に益田がニヤニヤ笑いを浮かべながら言った。
どうしたもこうしたも、父のピアノを見に来たに決まっている。
しかし、まんまと俺をはめてくれたこの男に素直に答えてやるような義理はない。
「…酒を飲みに来たに決まっている。他に何があると言うのだ。」
「へー、そうなのか?…じゃぁ、いつものヤツ…で良いか?」
芝居がかった仕草で肩をすくめると、益田はジンのボトルに手を伸ばした。
「……いや、ギムレットをくれ。」
「"ギムレットには早すぎる"ってか?お前、チャンドラーなんて読むんだ…。」
"ギムレットには早すぎる"とはレイモンド・チャンドラーの小説に登場する探偵フィリップ・マーロウのセリフとして有名だ。
しかし、俺がこのカクテルを頼んだのはそういう意味ではない。
「グラスは二つだ。…くだらないことを喋ってないで早くしろ。」
「へぇ〜、零一の奢りなんて珍しいな。」
「…誰がお前に奢ると言った。」
「"グラスは二つ"って言ったろ?この店には俺とお前以外の誰が居るってンだ?」
「……1つは父さん…の分だ。昔、"いつか零一と酒を飲みたい"と言っていたのを思い出した。」
「…………そうか。」
益田は急に改まった表情になって、黙ってシェイカーを振った。
出来上がった2杯のギムレットのうちの1杯は、いつも父がそうしていたようにピアノの鍵盤の左脇に置く。
俺はピアノの椅子に座ってもう1杯のグラスを軽く掲げて、父の愛したそのカクテルを飲み干した。

父は最期まで沈黙したまま逝ってしまった。
だが……、今…確かに、彼は、ここに、居て、俺を見守ってくれている事を確信した。

(終り)
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□いただいたヒナキの余談

 この前のお話「人生最良の、日に… 〜1975.11.06〜」は、作者ご本人がおっしゃるとおり少し痛い内容でしたが、私としては身につまされて心に残ったんですね。痛い話だけど、それは零一にとって避けては通れないポイントだったと思ったからです。
 などと感想を書いたところ、なんと続きを書いてくださいました。
 すごくしっとりしていて、「ああ、それあり得そうだな」と思えるのにロマンティックで、とても好きです。

 前作の最後で、零一が悲しくて(私のほうが)泣きそうだっただけに、ここへ来てやっとほっとしたといいますか…。
 やっと、ほんとうの意味で和解したんだなと思います。手遅れにならなくてよかったね、と心から言ってあげたいです。
 ちゃっかりしている義人も、らしくてほほえましいですし。

 親子の関係って不思議です。
 「いつか零一と酒を飲みたい」というせりふがありますが、親にとって、血を分けた子どもと酒を飲むってのは格別なものらしいです。もちろん個人によりますけど。
 そのためだけにでも、酒が飲めてよかったなとほんと思います。

 うちの父は酒が好きというより酒の場の雰囲気が好きで、なんだかんだと娘の私をバーなどに連れて行きたがります。カクテルを最初に教わったのも父でした。
 私は全然ファザコンではなく(ましてやマザコンでもなく)、一緒に行っても特に話すことなんかない。リクエストされて、カラオケでMy heart will go onを歌うくらいです。でも、隣で飲んでいるだけできっとこの人は幸せなんだろうなと思ってます。もう10年前から盆暮れ正月しか帰省しない娘ですので。今なんて1年に1回しか帰ってこないし。
 私の話はどうでもよかったんでした、失礼(笑)

 とにかく、ほんとよかったね、零一。

 gansekiさん、どうもありがとうございました。